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あえてことばにして伝えることの大切さ
・・・・・February 2
 

『ミオよ わたしのミオ』
アストリッド・リンドグレーン作、
大塚勇三訳
2001年 岩波少年文庫

[内容紹介]
 『ミオよ わたしのミオ』は、親と子とのきずなについて考えさせられる物語です。みなしごとしてつらい日々を送っていたミオは、ある日、別世界の「はるかな国」に入りこみます。その国を治めていた王は、生まれてから一度も会ったことのない自分のおとうさんでした。ミオは王子としておとうさんと楽しい毎日を過ごします。

 しかし、「はるかな国」に住む人々を悲しませる騎士カトーの存在を知ったミオは、彼を倒すために旅立ちます。道のりは険しく、多くの苦難が待ちうけていました。こんな冒険はやめて「はるかな国」に帰りたいとミオはくじけてしまいそうになります。そんなときにきこえてくるのが「ミオよ、わたしのミオよ」というおとうさんの声でした。ミオは何度もその声に励まされながら、ついに騎士カトーを倒すのです。

   

あえてことばにして伝えることの大切さ (はしの)

 『ミオよ わたしのミオ』を読むと、父親である私の声は息子に届いているだろうか、息子に届くようなことばや態度で伝えているだろうか、そして何よりも息子が困難な状況に陥ったときに声がきこえるような信頼関係を築いているだろうかと考えてしまいます。どちらかというと、彼をことばや態度で傷つけることの方が多いのではないかと思っているからです。疲れていたり、精神的に余裕がないときには、「やることがなくて、つまらない」とソファーでゴロゴロしながら、もう何回も繰り返し読んでいるので台詞まで覚えてしまったマンガを再び読み始める息子のそんな取るに足らない行動に対して、いやもしかしたら彼にとっては意味があるかもしれない行動に対して、感情的に怒ってしまうことがあるのです。

 子どもたちと「ハリーポッター」を観に映画館に出かけたとき、ロビーで「さっさとしなさいよ」という大きな声がしました。声がした方を見ると、母親らしき人が「だから始まるまえにトイレに行っておきなさいって言ったじゃない」と映画のパンフレットを持った女の子を引きずるようにしてトイレがある方へ連れて行くところでした。子どものためにと忙しい時間を割いて出かけてきたのに、トイレで途中退場を余儀なくされたお母さんが怒る気持ちもわかります。しかしそれ以上に、きっと前日から映画を楽しみにしていたのに、こんなことで怒られてしまった女の子の気持ちを想像すると、私は悲しくなってしまうのです。
 私にもこんな経験があります。私が幼稚園に通っていた頃、母親の手伝いをしようと運んでいた買い物袋を落としてしまい、運が悪いことに中には卵が入っていたのです。失敗してしまった、悪いことをした、そのことを自分自身が一番わかっているのに、さらに母親には叱られるのです。買い物袋が落ち、卵が入ったプラスチックのケースが地面にぶつかる、そのときの「グッシャ」という音は忘れられません。先日、この「グッシャ」という音を偶然耳にしたときも、思ったとおり、袋の中の卵を確かめる子どもの姿がありました。どうか叱らないでと、そばに立つお母さんに私はお願いしたい気持ちでいっぱいでした。

 ミオのおとうさんのように、いざというときに子どもの心に声が響く、そのような信頼関係を築くのはとても難しく、反対に子どもを傷つけることは簡単です。子どもの心の中に、自分を傷つけたことばとして、一生残るものもあるかもしれません。おとうさんはさっきあんなひどいことを言ったけれど、本当は君のことが大好きなんだよ、といくらあとからフォローしてみても、そのことばを子どもの心から取り消すことはできません。おまけにそのフォローすらしないこともあるのです。

 それにしても、なぜミオは、長い間会わなかった男の人をおとうさんとして信頼することができたのでしょうか。
 みなしごだったミオは、彼を育てているおばさんに、父親は「やくざな男」だと聞かされます。しかし、ミオはそうでないことが会うまえから「わかっていた」といいます。そして「はるかな国」でおとうさんと再会したときも、「この人がぼくのおとうさんだと、ぼくにはわかっていた」というのです。もしかすると、何か目に見えないもので二人はつながっていたということもあるかもしれませんが、たぶんそうではなく、ミオと再会してからのおとうさんのことばや態度が、ミオに「わかっていた」と信じさせたのではないかと思うのです。
 おとうさんは、毎晩、ミオの部屋にやってきて、一緒に模型飛行機をつくったり、おしゃべりをします。そしてこんなことを言います。「わたしは、9年ものあいだ、おまえをさがしていた。」「わたしは、夜もねむらないで考えていた。……『ミオよ、わたしのミオ』って。」「いつまでもしあわせでいておくれ、ミオよ、わたしのミオ。」毎日毎日、何度も何度も、ことばでミオへの自分の想いを伝えます。
 また、今まで誰も手をつないでくれたことがなかったのに、おとうさんは手をつないでミオと一緒に歩いてくれます。みなしごだったとき育ててくれたおじさんもおばさんは、ミオが大声でわらうことがきらいだったのに、おとうさんは「もっともっと、わらうといいよ。」と言います。王さまとしての仕事が山ほどあるのに「あっちにいってろ!今は、ひまがないんだ!」などとは言わないのです。
 そうしてミオは、おとうさんが自分のことをどれだけ好きであるかをわかっていくのです。
 こうやってミオとお父さんは、信頼関係を築き、「ミオよ、わたしのミオよ。」ということばが、ときには勇気をもつことをのぞんでいるようにきこえ、ときには悲しまなくていいんだよといっているように感じるものとなったのです。

 私もミオの父親のように、子どもが悲しんでいるときに希望をもたせ、逃げ出したくなるほどつらいときには勇気づけてあげられるような存在でありたい、そういう関係を息子と築いていきたいと思っています。
 そのためには、あきらめずに子どもに自分の想いを伝えていくこと、照れてことばにできないようなことでも、あえてことばや態度で示すことが必要なときもあるのだということを、私はミオのおとうさんから学びました。ときには子どもを傷つけてしまうこともあるけれど、それは子どもの心から消し去ることができないものかもしれないけれど、それでも私が息子の心に残したいのは、突き刺さることばのトゲではなく、彼の成長への私の想いであるということをわかってもらえるように伝えていこうと思っています。

 『カッレくん』や『ピッピ』で有名なリンドグレーンですが、意外にも『ミオ』を好きな作品として挙げる人が多いようです。もしかすると、言いたいけれど言えない、言ってほしいけれど言ってほしいと言えない、そんなことを迷いもなく伝え合っているミオとおとうさんの関係にあこがれつつも、それを素直に言いあらわせない微妙な気持ちが、私のような隠れた『ミオ』ファンを生んでいるのかもしれません。

 

 

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