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「本は読むほどにあまい。」そのあまさは、
 字を読めることだけでは、あじわえない。
・・・・・June6
 

  

『ありがとう、フォルカー先生』
パトリシア・ポラッコ 作・絵
香咲弥須子 訳
2001年・岩崎書店

[内容紹介]
 トリシャは、本を読むことをとても楽しみにしていました。けれども、まわりの友だちがどんどん字が読めるようになっても、トリシャには、読むことができませんでした。文字はただのぐにゃぐにゃした形に見えるだけです。友だちにもばかにされ、トリシャは学校に通うのもいやになってきました。みんなにいじめられるのも自分がばかだからだ、と考えていたのです。そんなトリシャが5年生のとき、フォルカー先生に出会いました。
 これは、トリシャにとって大きな道をひらく出会いとなりました。
 

 

   

「本は読むほどにあまい。」そのあまさは、
 字を読めることだけでは、あじわえない。 (コリーナ)

 この絵本をみたとき、書架に並んでいるだけでは、子どもたちの手にわたることは少ないだろうな、と思っていました。そこで5、6年生の各クラスで読み聞かせをしました。このおはなしは、作者であるポラッコ自身のことを書いたものです。彼女は、幼いときLDでした。字も数字もただのぐにゃぐにゃした形に見えるだけの子どもに、まわりの子どもは当然のように「なんでそんなのもできないんだ?」といった言葉を投げます。
  トリシャは、みんなにいじめられるのは、自分がみんなと違うからだ、と自分にその原因の矛先を向けます。フォルカー先生と出会うことで、トリシャは字を読み、本を読むことができるようになります。この家のならわしになっていた5歳になったら本にハチミツをたらして「ハチミツはあまい。本は読むほどあまい」という場面はとても印象的でした。この話を聞いていた子どもたちは、「本にはちみつなんて、たらしていいの?」なんて言っていましたが。

 それから、このおはなしのなかには一言もLD、あるいは障害、といった言葉は使われていません。(巻末には説明がありますが。)ですから、子どもたちが読むときにこの子のことを病気だと思う子は少ないと思います。だからこそ、知ってもらいたいと思いました。一人一人違うことをどんなに説明するよりも、伝わるのではないかと考えました。トリシャが、家の都合で転校することになったとき、「学校が変われば、自分も生まれ変わるかも。」と抱いた思いは、子どもたちにとってもたやすく想像できる思いでしょう。そして、その結果、やはり学校が変わっても、字を読めない状況が変わらないことに失望するトリシャの姿、トリシャを守る先生、執拗にいじめる男の子、どれもが子どもたちには実体験として登場人物に近づけるものです。トリシャが、お母さんにおなかが痛いと嘘をいって学校を休むようになったのも、学校がきらいだから、という場面では、子どもたちそれぞれが自分の体験と重ねていたようにも見えました。

 トリシャは、フォルカー先生との出会いによって、字が読めるようになりました。それまで、味わうことができなかった“本を読む”という楽しみを知ったときのトリシャの思いは、まさにハチミツのあまさにひけをとらないものだったにちがいありません。けれども、トリシャがこのあまさをすぐに感じることができたのも、トリシャ自身のなかに豊かな感受性があったからでしょう。幼いときから、おばあちゃんと星の話をしたり、自然のなかで遊んだり、そういった想像力は字を読む能力以上に一朝一夕にはたくわえられないものでしょう。たくわえたれていたイマジネーションがあったからこそ、文字が読めるようになったときも、おはなしの世界に入ることがすぐにできたのでしょう。
 お話のなかには、楽しいお話や笑えるものなど様々なものがありますが、そういったなかで、読み終わった後にストンと落ちるというか、空気がシンとなるような類のものがあります。これが、そうでした。前半、トリシャのことを「ばかなんじゃないの」と言っていた男の子も、徐々に口少なくなっていきました。実際に、友だちの一人がフリースクールに通っている6年生のクラスでの読み聞かせは、それぞれ思うこともあったと思います。

 フリースクールに通う友だちというのは、ADHDのひろし君です。4年生まで、同じ学校に通っていたのですが、自分の衝動を抑えられない場面が多く、物を投げたり、大きな声を出したりするのを子どもたちも見ていました。
 ひろし君を特別な目で見る子、ひろし君が叱られないことに不満を出す子、同じ行動をしても叱られないかも、と追随してふざける子、こわがってしまう子など様々でした。親の反応ももちろん様々です。ひろし君の親自身、子どもの様子をありのまま見ることには恐れがあり、ほかの子どもとかわらないという被いをできるだけかぶせて見ようとしていました。けれども、時が経過するにつれて、ひろし君にとってよい方向を考え、フリースクールへの登校を決断したのです。
 彼のことをクラスの子に話しても、それを子どもたちが理解することは難しかったと思います。けれども、5年生になってからフリースクールに通い、運動会など行事のときにだけ登校するひろし君を間近に見ている彼らだからこそ、考えることもあったでしょう。クラスの女の子3人が、読み聞かせ後、自分たちで手にとって読んでいました。彼女たちが読んでいたのは、本のあとがきとして添えてあるLDという病気について、のところでした。

 全てを知ることがいいことかというと、一概にイエスとは言えませんが、知らないことで相手を傷つけたとき「知らなかった」の言葉ではすまないことを心にとめてほしいと思いました。子どもたちの言葉に「知らなかった」「わかりません」といった類のものが増えてきているように感じ、その言葉を免罪符のようにかざしているのがとても気になったので、知ることの大事さや、知ろうとする努力をしてほしいと繰り返してしまうこのごろです。

 

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